国指定史跡 宗麟原供養塔

 現在にその姿を残す西の関ヶ原といわれた
九州争覇戦・高城合戦の戦没者を供養する塔
 

 

宗麟原供養塔は昭和8年に国の史跡として指定を受けていて
その歴史は
天正6(1578)年11月12日に
鹿児島(薩摩)の島津氏と大分(豊後)の大友氏との間で繰り広げられた
九州争覇戦・高城合戦は西の関ヶ原とも呼ばれる大きな戦から始まります。

この戦いによって亡くなったおよそ7000人の魂を
敵味方なく弔うために高城城主の島津軍武将
山田新介有信が天正13年に建立したものです。

現在の供養塔は高さ3.5m、1辺24mの供養塚の一部を削って
建てられていますが
元々は供養塚の南側に立っていたと考えられています。

平成15年の供養塔の周辺の発掘調査では
供養塚の周りに24m四方の板で作った塀の痕が見つかり
供養塚の南には、溝で囲った12m四方の斎場(お祭りをする場所)が見つかっています。

なぜ供養塔の位置が変わったのかというと
明治時代初期の廃仏毀釈で
供養塔が東側の地蔵谷という谷に捨てられ
大正時代頃に谷底から持って上がってきて現在の位置に据え直したためです。

 

この供養塔には六地蔵が刻まれていて
人間は死後、生前の行いにより三悪道及び三善道と呼ばれる
六つのうちのどこかに行くとされていて
そのどこへ行っても地蔵が助けてくれるという考えに
基づいたものと言われています。

毎年11月12日には「宗麟原供養塔供養祭」が行われていて
島津家、大友家のゆかりの方や地元の方が参加されています。


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